2025年8月19日、井の頭通りを北西に歩いていた僕は、「神南小学校下」交差点を右に曲がった。オルガン坂を少し上り、左側の細い路地へ入った。この路地は「無国籍通り」と呼ばれていて、何となく物騒なイメージがあるが、スクールゾーンに通じる。

神南小学校、渋谷区役所の脇を黙々と歩いていくと、文字がびっしり刻まれた碑文を発見。二・二六事件慰霊像にたどり着いたのだ。

二・二六事件は、1936年2月26日に起こった軍事クーデターだ。陸軍の青年将校を中心とした部隊が、天皇の側近や政府要人を殺害し、首相官邸や警視庁などを占拠。彼らの目的は、天皇中心の軍事政権を樹立することだった。しかし、昭和天皇の逆鱗に触れ、将校たちは3日後の29日に拘束された。クーデターは失敗したが、二・二六事件をきっかけに軍部の発言力が強まり、日本は軍国主義への道を突き進むこととなったといわれる。



二・二六事件慰霊像のあるのは陸軍刑務所跡地。二・二六事件を主導した青年将校たちが処刑された刑場跡地でもある。
台座の上に立つのは、青年将校の遺族会「仏心会(ぶっしんかい)」が1965年2月に建立した観音像。刑死した将校たちだけでなく、二・二六事件で命を落としたすべての犠牲者たちの魂を鎮める役割を担う。詳細は「NEWSポストセブン」の記事参照。
観音様の目の前にはNHK放送センターがある。NHKに出入りする人たちは全員、慰霊像をスルーしていた。

僕は後日知ったのだが、二・二六事件慰霊像は恋愛成就のパワースポットなのだとか……。2010年に刊行された『島田秀平と行く!全国パワースポットガイド 決定版!!』(講談社)では、「この慰霊碑の前で告白やプロポーズをするとうまくいくと女子高生の間で人気なんです」と紹介されている。
恋人いない歴うん十年の僕は、恋愛の「れ」の字すら無縁なので、二・二六事件慰霊像のご利益に与ろうとは思わない。告白が成功するというご利益が本当にあるのかどうかが、まずは疑わしい。というか、こんなところでいちゃつくバカップルはさっさと別れてしまえ!(笑)
この後、僕は二・二六事件慰霊像から南西に歩いて行った。国木田独歩住居跡があるというので、それも見ておきたかったからだ。しかし、住居跡がない……!?
真っ先に視界に飛び込んできたのは「Amway」の文字列。何かと話題に事欠かないアムウェイがこんなところに……。

僕はアムウェイの前を行ったり来たりし、さらにはアムウェイの敷地内(一般人の通行可)まで歩き回って、アムウェイの周りをぐるりと一周したところで、ようやく国木田独歩住居跡を発見!

木の横に柱がひっそりとあったので、気づかずに通り過ぎていたのだ。
「立派な何かが目立つようにあるのだろう」と思い込んでいた僕は、柱の存在に気づかなかった。
「この商品は高いけれど品質がいい」と思い込んでいた会員は、自他の不幸に気づかなかった(何のこと?(笑))
このように、思い込みは人間の目を曇らせてしまう。
それはそうと、国木田独歩に関する説明は次のように書かれている。
国木田独歩は、明治四年(一八七一)銚子に生まれ、同二十九年(一八九六) ここに移り住み、名作「武蔵野」の構想を練りました。また「源叔父」 「欺かざるの記」もここで執筆しましたが、翌三十年五月麹町に移りました。
明治時代に活躍した独歩は自然主義文学の先駆けとして有名だ。自然主義文学では、ありのままの現実を描写しようとする。人間の醜さや汚さから目を背けず、理想を語らず、自らの欲望や愚かな人生をひたすら書き綴る。
独歩は佐々城信子と駆け落ち同然に結ばれて結婚するが、たった5か月で離婚。この辛い思いが自然主義へとつながっていく。
恋愛とはかくも辛く苦しい。二・二六事件慰霊像の前で告白して、好きな人と結ばれたとしても、その後は不幸になるだけだ。独歩の人生から学べ!(笑)
さて、僕が一番気になったのは、二・二六事件慰霊像の周辺だ。東には渋谷税務署、北にはNHK、西にはアムウェイがそれぞれ位置する。慰霊像がこれらの組織を監視しているかのようだ。
国家の行く末を憂え、命を散らしていった青年将校たちの霊と、彼らに命を散らされた犠牲者たちの霊が、人々から搾り取ろうとする税務署・NHK・アムウェイに睨みを利かせ、日本を守ってくれているのだろう。
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